ウィキペディアなどを見ると概要の次に歴史が書いていたりする。
2.アドの歩み
1992年:創業 (ホームページに書いてある。)
初めは仕上げチームだけのスタジオだったそうで、加藤代表の奥さんともう一人(この方はジブリ作品のスタッフロールに載ってたりする。今も裏ボスとしてアドで現役)でやってた。(・・・ここに書いてある事は全て伝聞、または独自調査によるものであります。)加藤は「なんかやってんなぁ〜」という感じで見ていたらしい。
1995年:作画マン1号の誕生(おそらくこの年)
知り合いだか近所の人だかの方から「絵で食べて生きたい」という坊ちゃんを預かる事になった。(繰り返し申し上げますが、ここに書いてあります事は全て伝聞、その記憶であります。ご指摘を頂ければ謹んで訂正致します。。)当時、加藤はサンライズで仕事をしており、朝、課題を与えて仕事へ行き、帰ってきてからチェックする、という感じだったらしい。
1996年〜:作画マン続々・・・
順調に育つ1号。なにか想うところあってか、加藤は翌年からどんどん志し有る若者を集めて熱心に指導していく・・・。
1999年:設立
ここでおそらく会社という形にした。それまでは周辺住人から謎の集団扱いされていたに違いない。
2000年〜:北坂戸時代
人が増えたので加藤は自宅近くにあったスタジオを北坂戸に移す。ここでも看板などは出さず、近隣の方からは謎の組織扱いを・・・。この頃は面白いエピソードてんこ盛りだが、書ききれないので一切書かない。私はこの北坂戸時代最後の年に転がり込んだ。
2010年〜:若葉時代
人が増えたので・・・移動した。50人近かった。この時新しいスタジオの広さを見誤り入りきらない事が判明、何人かが置いてけぼりを喰らう。二班体制を模索したがいろいろ面倒で、翌年、むりやり若葉側にねじ込んだ。
代表の加藤はここで還暦を迎えた。赤いちゃんちゃんこを着せられそうになり、何度も断ったが逃げ場が無く、最後は渋々、しぶしぶ着た。
2015年:現在
人が減ったので移動した。我々は遊牧民のごとく、その時の状況に合わせて移動を繰り返す。(ここまで書いて書き直したり、削除したり、俺ごと葬られる可能性を思うとゾッとする。)
組織というものは大きくなるにつれ、一つの考え、理想の本に団結する事が難しくなる。50人いれば50人それぞれの考え方、理念、スタイルが有り、又、これらの個人が努力の末に実力を付け発言力、影響力を増していくと派閥が生まれる・・・。主流派と反主流ができる。アドはここまでにはなっていないが、アドのやり方と合わなくなって来た人や、自分の力を他所で試したい、或いはさらに力を付けたい、という人が離脱して行った。まぁ他のさまざまな理由で辞めていった人も多くおられるが・・・。という事で今25人ぐらい。
2015年06月26日
アドについて・・・#2(仮)
posted by やましち at 01:18| Comment(0)
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